投稿日時 2025-07-21 14:46:39 投稿者 ![]() 一ノ宮ガユウ このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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Fig.554: 明治初期長野県町村絵地図大鑑 4 南信篇(1985) 所収「御射山神戸村」 コラム (13) 富士見町東部の変遷 https://www.alphapolis.co.jp/novel/214885297/89423550/episode/5177433 [糖塚 (糠塚)] 同じく文政7年(1822) 南部10村の請書にあらわれる。「瀬沢新田原に設けられた糠塚」といい、瀬沢新田村の西の原に築かれた境塚のひとつと考えられる。富士見町史 上巻(1991) と「諏訪史蹟要項 8 富士見村篇」(1955/1996) は「糠塚」、しかし町史の前身となる富士見村誌(1961) を含むほかは「糖塚」。直接関係はしないが、原村には「糠塚」という地名が存在し、地名で使用される文字としては「糖」(あめ/トウ) よりも「糠」(ぬか/コウ) のほうが明らかに多いが、それゆえの読み誤りもあり得るので何とも判断しがたい。いずれにせよ、人工物なので現存しているとは思えず、位置の特定ともども詳細は追えない。 南部10村の請書で糖塚の次にある「三本栂」は、富士見町史 上巻(1991) で略図上に相当する位置が示されている。郡村誌付帯の「立沢村」絵地図にも同じような位置に「字三本栂」がある。三本の栂 (つが/とが) の木があって目印にされていたのだろう。一部「三木栂」ともあるが、意味からいっても誤字だろう。前項の「肘曲り (臂曲り)」とこの「三本栂」、そして次項の「あらい坂」から変動前の国界の位置はほぼ限定される。したがってそれと瀬沢新田村の範囲が合致する付近のどこかに「糖塚 (糠塚)」あったのだろう。 [あらい坂 (荒井坂・洗坂)] やはり文政7年(1822) 南部10村の請書に「荒井坂」としてあらわれる。富士見町史 上巻(1991) は「現在の洗坂か」としているが、詳細な位置情報を示していない。ただ、「洗坂 (現況)」として掲載している写真は「富士見パノラマリゾート入口」交差点付近で国道20号から分岐する旧甲州街道の入口であり、郡村誌付帯の「御射山神戸村」にもその付近の甲州街道脇に「字洗坂」という地名がある。同地点から峠 (原の茶屋) までの急坂と考えられ、また地形的な特徴と、別の争論 (桑畑一件) では「洗坂」の地名が取り沙汰されることから、荒井坂 = 洗坂と考えて問題ないだろう。 [赤のら山] 現在の富士見パノラマリゾートのゴンドラ山頂駅がある山。富士見村誌(1961) の「富士見村図」に「アカノラ山」とある。 [麦日向] 「桑畑一件」と通称される、文政7年(1824) 高島藩が桑畑開発を奨励したことをきっかけに、複数の村々を巻き込んで発生した争論にあらわれる地名。富士見町史 上巻(1991) によれば、富士見パノラマリゾートの写真を示した上で「右側のゲレンデの頭頂部」とあるので、赤のら山 (アカノラ山) と同じ付近を指しているものと思われる。 [細尾] 複数の争論にあわわれる地名。目印として広く通用していたようで、諏訪藩主手元絵図の「御射山神戸村 栗生新田」の左端 (南端) と「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」の右端 (北端) にも記載されている。松目沢の北側の尾根のひとつ。 |
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