Fig.118: 甲斐国➡信濃国: 天正11年(1583) お気に入り画像登録
Fig.118: 甲斐国➡信濃国: 天正11年(1583)

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2025-07-21 15:06:44

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一ノ宮ガユウ

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コラム (13) 富士見町東部の変遷
https://www.alphapolis.co.jp/novel/214885297/89423550/episode/5177433

甲斐・信濃 (甲州・信州) の国界は戦国期から織豊期にかけて変動した。

天文10年(1541) 6月、武田晴信 (のちの信玄) は父・信虎を追放し、天文11年(1542) 6月に信州 諏訪へ侵攻した。そして 7月には諏訪頼重を滅ぼしたのち、高遠頼継も後退させて支配下においた。さらに天文14年(1544) には高遠氏も降伏させ、天文17年(1548) までにほかの諸氏も排除した。この結果、諏訪は武田氏 (信玄・勝頼の領国に組み込まれ、その後 30年以上にわたってこの体制が続くことになる。しかし元亀4年(1573)、三河からの帰路で信玄が病死、天正3年(1575) 長篠の戦いで勝頼は大敗し、天正10年(1582) 3月までに武田氏は滅びた。

ここで甲斐・信濃の両国は一時的に織田信長の支配下に入る。しかし 6月に本能寺の変が起こると、在地の旧勢力や徳川家康・北条氏直ら周辺の有力大名の動きが活発となり、諏訪では諏訪頼忠 (頼重の従兄弟) が旧臣らに擁立された。頼忠は徳川と北条の間で揺れ動いたものの、最終的には家康の配下となって、天正11年(1583) 諏訪を安堵された。具体的には、天正11年(1583) 3月28日付の徳川家康宛行状によって諏訪頼忠は「信州諏方郡」を宛てがわれた。

このときの諏方郡 (諏訪郡) の範囲は徳川家康宛行状からはわからないが、翌年 10月14日付の諏訪頼忠宛行状で頼忠は平井弖清右衛門に「蔦木内合五貫文」を与えているので、根拠となる徳川家康宛行状の諏訪郡には「蔦木」を含む地域が含まれていなければならない。この「蔦木」は近世 上蔦木村・下蔦木村にあたる。したがって、天正11年(1583) 3月28日付の徳川家康宛行状における諏訪郡には変動範囲が含まれ、その時点をもって国界は変動したといえる。
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